全国統一への道 ~織田信長・豊臣秀吉・徳川家康~ わかりやすく解説!

どうもみなさん、tomooooooooです!!!

今回は、織田信長豊臣秀吉徳川家康の全国統一についてまとめていきたいなと思います!

 

ではいきましょう!

 

用語の色付けについては、下の記事に書いてあります⤵⤵⤵

 

 

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織田信長の戦術

小さな戦国大名だった織田信長は、東海地方を支配していたと戦いました。

当時、信長の敗北を予想した人々がほとんどだったが、今川義元を破りました。

桶狭間の戦い

 

武田勝頼との戦いでは、貿易によって手に入れた大量の鉄砲を効果的に使い、戦いに勝利しました。

長篠の戦い

 

また、神仏などの偶像を信長は軽視しました。例えば、

比叡山延暦寺を焼き打ちにした。

・各地で起こった一向一揆を屈服させた。

一向一揆の根拠地である石山本願寺を降伏させた。

などです。

 

また、信長は、滋賀県安土城を築いて、全国統一の拠点として次々と政策を打ち出し、発展させようとしました。

商工業者の多くが同業者で営業を独占するために作ったをなくし、市場での税を免除して商工業を活発にしました。

これを、楽市·楽座といいます。

交通面では、関所を廃止したり、楽市令で京都に行き来する商人は、必ず安土に寄って泊まることを義務付けたりして、発展させようとしました。

そして、1508年に、他の戦国大名よりも先に京都を抑え、足利義昭を15代将軍としました。

しかし、その後義昭と対立した信長は、1573年には義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし、政治の実権を握ることに成功しました。

これを、本能寺の変といいます。

 

豊臣秀吉の政策

田畑ごとの収穫量・広さ・年貢の負担者を検地表に記録しました。

これにより、持ち主・耕す人が一致するようになりました。

収穫量には、という単位が使われ、武士は自分の領地の石高に対して戦いに必要な人や馬などの確保を請け負い、農民は石高に応じた年貢を納めるようになりました。

また、刀狩令を出し百姓が刀や槍などの武器を持つことを禁止させました。

このように、武士と百姓の身分を区別したことを、兵農分離といいます。

もともと武士は戦争がないときには農業を営んでいましたが、武士は城の周辺に住むようになりました。

検地や刀狩などによって、農民の移住と武器の所有を禁止して、農民と武士の違いをはっきりさせました。

長崎がキリシタン大名によって寄進され、教会領になったことなどから、キリスト教勢力を恐れるようになり、1587年にバテレン追放令をだしました。

しかし、海外貿易がキリスト教の布教と一体化していたため、キリスト教の禁止を徹底することはできませんでした。

また、明の征服を目指し、1592年に朝鮮に攻め入りました(文禄の役)。

李舜臣(り しゅんしん)の率いる水軍や明の援軍もあっていきづまりました。

それから、1597年に再び出兵しました(慶長の役)。

しかし、これも1598年の秀吉の死によって全軍が引き上げられました。  

江戸幕府の成立

 豊臣秀吉の死後、1600年に石田三成らを関ヶ原の戦いで破った徳川家康は、1603年に江戸幕府を開きました。

これにより、江戸時代が始まりました。

徳川家康は1615年には豊臣氏をほろぼし、3代将軍徳川家光までに約260年にわたって全国を支配する基礎をつくりました。

幕府は、武家諸法度を定め、違反した大名などに対して改易(取りつぶし)や転封(国替)などを行い大名を統制しました。

 

「大名の種類」

・徳川一門の親藩

・初めから徳川の家臣だった譜代大名

関ヶ原の戦いのころから徳川に従った外様大名

に分けられました。

 

大名が支配する領域のしくみをといい、幕府と藩が全国に支配することを幕藩体制といいます。

また、親藩譜代大名は江戸・京都などの重要都市の近くに、外様大名は重要都市から離れた遠いところにおかれました。

外様大名が重要都市から離れた場所におかれたのかというと、反乱をおこす可能性があるとして幕府に信頼されてなかったからでした。

 

 

 

参勤交代の制度

松前藩(24万石)の歳出のうち、参勤交代による経費は全体の33.9%を占めています。

この金額は現在の40.5億円にあたります。

このことから、参勤交代は大名にとって大きな負担であったということがわかります。

 

 

 

まとめ

このように、幕府の圧倒的な武力、武家諸法度や参勤交代などの制度、大名の配置の仕方の工夫、圧倒的な財力などによって幕府は、全国を支配しました。